いざというときに役立たず


「アンタが僕にかい?」

 昨日、勉強を教えてと部屋へ誘って、別の事に明け暮れたのを根に持っているらしい。(法曹界に復帰)という口実は、狡いけれども王子様を誘い出すには効果的なのだ。ついつい、彼の好意に甘えてしまうのは、確かに僕の方だなぁと成歩堂は思う。
 むっとした顔を崩さない響也に微笑み掛ける。黒いズボンに包まれた長い脚を折り曲げて、椅子に膝を抱える様子が可愛い。

「響也くんに甘えて欲しいよ。」
 僕に。

 丸まっている身体を、椅子も込みで背中から抱きしめる。耳元で囁くと、眉間に皺がよるけれど頬が赤らむのがわかった。
 触れている体温が高い。
「もっと、もっと甘やかしたい。もっと、もっと我が侭言って欲しい。」
「…。」
「響也くんは、ずっと頑張ってたから。他の誰が知らなくたって、僕は知っている。あの法廷の時から、きっとその前から。君はずっと頑張っているから。」
 口をへの字にしている王子様は、普段の態度からは考えられないか細い声で呟いた。
「だ…だったら、ちゃんと勉強して、早く…。」
「頑張るよ。」
 それ以上響也が文句を言わないのは、テーブルの上に参考書が積まれていたからだ。確かに、一緒に眠ったのだけれど少しだけ彼より早く起きたのは、やっぱり同じ場所に立ちたいから。
 それが、響也を一番安心させる事だと知っているから。

「…うん。」

 コクリと頷く。

「待たせるけど、ね。」

 ごめんね。と囁いてから、響也のこめかみに唇を寄せた。
腕の中ですっかりと大人しくなっている響也を腕の中に囲ったまま、彼の項に頬を埋めた。快楽の余韻がゾクゾクと背中を揺すぶらないでもないけれど、こんな風に響也を感じて、甘えるのも良い。
 そう思って、成歩堂は口端を上げた。やっぱり甘えているのは僕の方だ。

「僕は、待ってるなんて思わない。」
 
 口調は変わらず躊躇いがちで、響也はぼそりと口を開く。
 
「きっとimprintingに決まってる。
 …生まれて初めてあそこに立って見たのがアンタだから。正面を向くと、最初に浮かぶのはツンツン頭の青い背広の弁護士なんだ。」

 理屈じゃなくて、自分の中に刻まれた必須条件。こんな愛され方ってあるのだろうかと、成歩堂は一瞬胸を詰まらせた。
 無条件に求められるという事は、無条件に愛されているのと同じ事だ。

「…だから、アンタを…。」
「うん、行く。だから、待ってて。」
 胸の中に込み上げてくる気持ちのまま、成歩堂はぎゅっと腕を窄めた。くすぐったいのか窮屈なのか、捕らえた相手が身じろぐのさえ嬉しい。愛おしい。
 僕は愛されている。そして、僕も愛してる。天にも登る心地というのはこういう事だ。

 もう一度、チューでもしようかと考えていた成歩堂のピンク色の脳味噌は、玄関が開く音で無理矢理理性を引き戻された。
 扉を開閉する音。廊下を歩く足音。どうやらみぬきではないらしいそれを判断する前に成歩堂は響也に肘でもって押し退けられる。酷いじゃないかと訴えれば、くっつくなおっさんと睨まれる。
 さっきまで、あれだけデレデレしていたのに、照れ屋さんなんだからも〜と胸中で思いつつ、自分にだけ向けられる甘い態度はそれはそれで歓喜に値する。
 そうして、朝の挨拶と共に顔を覗かせたのは王泥喜だった。他に誰が来るのかと言われればその通りなのだろうけれど。

「勉強進みましたか?」

 手にした紙袋をテーブルに置き、成歩堂を見る。
見慣れた上下の赤いスーツ姿の王泥喜は、しかしその格好とは不似合いな代物を紙袋から執りだし並べ始めた。
 簡易なプラスチックの容器には入った様々なおかずは、見た目も綺麗で、こう言ってはなんだか、彼のお手製には見えない。
「みぬきちゃんは、俺の家から直接友達と遊びに出るからこっちへは帰らないそうですよ。代わりに牙琉検事にお礼をしてくれって頼まれたんで。
 これ、昨日彼女とデパ地下で買った奴です。閉店が近かったから安かったですよ。」
 ああ、なるほどと、成歩堂は頷く。
しかし、自分の横に並んでいた響也がつられて王泥喜の側によるとムッと眉間に皺を寄せた。
「へぇ、随分美味しそう。」
「一応、有名な店が軒を並べる場所ですからね。値段の割りには美味しいものが多いですよ。きっと、美食家の牙琉検事でも大丈夫だって、みぬきちゃんのお墨付きです。」
「僕は美食家じゃないよ。兄貴のことは否定しないけど。」
 響也は苦く笑う。蓋を止めていた輪ゴムをずらして、惣菜のひとつを頬張った。
「…美味い、ね。」
「でしょ?」
 目を丸くした響也に、王泥喜もにこりと笑う。「俺もお勧めです。」
「今度、僕にも教えてよ。」
「じゃあ、一緒に行きましょうか?」
 待ち合わせの約束なんかを始める若者に、はっきり言って成歩堂は面白くない。
 だって、響也くんは僕の恋人なんだし、ふたりだけの時はあんなに甘えてくれたし…。そんな思考が、子供っぽい独占欲だという事実には、思いきりよく目を瞑る。
 そうして、目を瞑ったまま行動を開始した。


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